平戸島の北にある生月島では、古来より鯨漁が行われていました。
1725年から鯨漁をはじめた網元の益富家は、網を使った組織的な鯨漁で財を成し、平戸藩にも通算で百万両以上を納めました。
益富家の親戚で、平戸藩士であった山縣家の当主が、益富家からの資金で当時平戸領であった佐世保村で干潟を干拓、1789年に新田は完成し、山縣新田や塩浜新田と呼ばれました。
明治時代になり、版籍奉還によって平戸藩は無くなり、明治22年に佐世保村には海軍鎮守府が設置されました。
周囲の町や村から佐世保に人が集まり、田畑には道路が引かれ、家屋が建ち並ぶようになっていきました。
明治35年には人口が4万5千人を超え、「佐世保村」から「佐世保市」になり、その後も人口はどんどん増えていきました。そして、明治40年、町制移行により小佐世保免の一部であった山縣新田は山縣町になりました。
商店街に隣接している山県町には、映画館や遊廓、キャバレー、飲食店が増え、夜は海軍さんがそぞろ歩く歓楽街となりました。
第2次世界大戦が始まり、軍港としての佐世保市の重要度が増し、終戦直前には人口が八万を越す、九州でも有数の大都市となりました。
第2次世界大戦が終わり、山県町は戦災復興計画によって生まれ変わりました。終戦後、海軍の消滅とともに一旦は火が消えたようになった佐世保の町は、海軍の代わりに進駐した米軍と朝鮮戦争を契機に、好景気に沸きました。
山県町は映画館や飲食店が建ち並ぶ繁華街となり、現在の飲食店街へと続いています。
 
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